デイサービスに行く暮らし

私が認知症になったら | 村井さんちの生活 | 村井理子 | 連載 | 考える人 | 新潮社

 

拝読。

さて、

私は身体障害で週に2回半日のデイサービスに通ってかれこれ9年になる。経営者夫妻は子どもと同じ年代だけど友だちだし,

スタッフには、同じ年代の人も数人いる。

 当初は自分の親と同じ年代の高齢者の中に放り込まれて、ショックだったし、リハビリを頑張ってここから抜け出したいと考えていた。同じように通ってきていた若手は、だんだんとやめていって、今や「誰が一番古株かって言うと、私よね」というようになってる。これだけ通っていると、高齢者メンバーも友だちだ。高齢者メンバーもだんだん抜けていって(こっちは寂しい理由だが)いるが、「私、もう81よ」が口癖だったTさんも「私もうじき90よ」と言いながら毎週やってくるし、顔を見れば嬉しい人がたくさんいる。人に歴史ありで、様々な人生を少しずつ聞いては感心する。みんな先を争うように筋トレマシンを使ったり、個人用プログラムをやってるので、そんなにしゃべっている時間は無いが、そのくらいがちょうどいい感覚だ。お風呂も昼食もないデイサービスだから、認知症の人は少ないが、混乱して、戸惑っては嘆きを繰り返している人も、看護師さんに励まされてガチャガチャと運動しているうちに、表情が明るくなってくる。

 先日は認知症が進んで、1日型のデイケアに移ったMさんがやってきた。施設に入る前にみんなに会わせてあげたいと娘さんとケアマネが計画してくれたらしい。もうここがどこだかわからない様子だったけど、「お迎えが来たから車に乗ったらみんながいたの」と嬉しそうなので、こちらもしみじみして、ちょっぴり涙が出てしまったりもした。

 うちの血縁は誰も最後まで認知症にはなっていないので、私も最後まで意識ははっきりしているつもりでいる。このまま老いていって、仕事も出来なくなっても、入浴が難しくなるまではここに通うだろうなあと思っていると、かなり安心して老後を迎えることが出来そうだ。今は自立度が高いので、要支援2で、週2回だけど、だんだん老いていけば、要介護になって、毎日行けるようになる。運動が終わると、デロンギのコーヒーメーカーで入れたコーヒーが出るのを楽しみに、あと10年通うのが私の未来だ。

カウンターキッチン

今のマンションに引っ越して、台所がカウンターのある対面式になった。もう子どもを見張りながら料理をする環境でもないし、カウンターってすぐにもので埋まっちゃうのよね。カウンターのあるお店でも物置になってしまっているところ多いし。とそんなことを考えてたのだが、意外や意外、10年たってもカウンターはちゃんと機能してる。ここで食事をするということはないが、出来た料理が置かれ、食べた皿を置く。

 片麻痺の私も自分の昼食は作るから、カウンターの中で、まず調理人になる。

出来たものを皿に盛り付け「はい、ランチできました」とカウンターに置く。

キッチンを出てダイニング側に移動して配膳人になって「ランチになります」とテーブルの上に置く。

最後に食べる人になって、自分の席に座る。

「ごちそうさま」で、また配膳人になって、皿を下げる。

キッチン側に回って、皿を流しに入れる。

 

4時くらいになったら、朝から溜まってきた皿を食洗機に入れてスイッチを回す。

 

夕飯は夫が調理人で、娘たちが配膳人、私は「ご飯出来てるんだから、早く座って」と言われて、「いただきます」する人。夕食後は時々皿を片付けて食洗機を回すこともあるが、だいたい娘たちがやってくれる。

 

この動線のカギがカウンターだから、無目的にちょい置きされたものは、批判を受けて片付けられる運命に。今はジャムの空き瓶と、水切りヨーグルト用の容器が冷たい視線を浴びている。数日内に片付けられるはずだ。

 

 

夏の思い出

昔のことを思い出して、しみじみするのが嫌いだ。昔大好きのノスタルジー男の弟は言うに及ばず、妹からも「えー?懐かしくないの?」と呆れられるが、

歴史研究も、古い時代のノンフィクションとか日記とか大好きで、娘から、歴史的事実を「見てきたように」語ると言われるくせに、自分の思い出は、どうも楽しくない。

 

それでもだんだん年をとって、ふっと感慨にふけることは増えてきた。

 

そういうわけで、夏の思い出だ。母の実家は戦前から大井町で、親族も芝だったり、溝の口だったりするし、新潟県村上市出身の父も、祖父が船乗りだったので、終戦時には天津にいて引き上げで帰ってきたので、田舎の実家はない。村上の親戚もみんな都会に出てきたり、行方がわからなかったりで、もう本当に墓があるだけになってしまっている。

 田舎がない子どもではあったけど、脳卒中で倒れた祖父が温暖な土地での療養を勧められて真鶴に小さな別荘を建てて暮らしていたので、夏は決まってそこだった。

 

斜面を降りていくと小さな石だらけの浜があって、夏は猟師のオジさんがタイヤ浮き輪と貸しボートをしてたので、一応海水浴場だ。おじさんの商売が成り立つぐらいには客もいたはずだが、記憶の中ではいつもしんとしていて人気が無い。

 昭和の親は、浮き輪を持っていくから大丈夫と言えば、子どもだけで泳ぎに行くのも止められることはなかったが(今考えるととんでもないが)なぜかいつもお盆過ぎにいくことになるので、クラゲが多くて往生した。結局、煩いくらいのツクツクホウシを聞きながら、宿題の残りをしていた記憶、耳を腫らして熱が出て遠くの耳鼻科に連れて行ってもらって、氷で冷やしながら寝ていた思い出ばりだったりする。

 いまはもう無い場所なので、しみじみとすると言えばしみじみとする。自由研究が間に合いそうになくて、海岸に流れ着いた海藻の標本を作ったっけ。ホンダワラが多かったけどあれは提出するときにちょっと自慢だった。今ならもっと面白いものを発見できたはずなんだが、当時住んでた地元に図書館もなくて、今なら知ってるようなことも全く知らなかったので、しかたない。

そういえば、熱海の花火大会を遠くから見たのは楽しかった。「良い子」だったので、クラゲが出ない早い時期に行きたい、また花火が見たいと思っても、心の中で願うだけだった。それが思い出が楽しくない理由かもしれない。

 

ときどきはこの寂しくて不器用な子と時間を共有するべきなのかもしれない。

 

遠き花火と漁り火の浮かびし夜の水面は暗し思い出に

 

 

誰が悪いわけではないが

コロナの後遺症は、実は娘にも出ているらしく、疲れて何も出来ないと嘆いている。生真面目なので、自分を責めてるようだけど、多分コロナのせいだと思う。そんなわけで、事務所の引っ越し準備が一向に進まないのだが、とりあえず少しは前に進めようと、IKEAの家具のリサイクルを申し込んだ。

 その準備に、作業には対して役に立たないのだが、作業の立ち会いということで久々に事務所に。

 ちょうど台風がやってきているところなので、ずっとカラカラだった空が一変して、通り雨が降る。雨の切れ目を狙って、ぴょこぴょこ歩いてバス停に向かい、いつものバスに乗る。無料乗車票にもなってるスイカを忘れてきたことに気がついたが、事務所から小銭入れを回収してきたので、それで乗る。

家までは、途中乗り換えなのだが、これが間髪入れずにバスが来ることもあれば、15分以上待たされることもある。

 事務所を借りた頃には、立派な屋根付きの停留所だったのだが、その後歩道の工事が始まって、撤去されてしまい、いまだに復活していない。そこで「今日は接続が悪そうだなと待っていると、乗ってきたのと同じ路線の次のバスが来た。そして、もう一台来て、ようやく乗り換え路線のが来たと思ったら、家のそばまで行かない行き先が微妙に違うバスだった。

前回、よく見ずにこれに乗ってしまって、失敗したので、今回はちゃんと見送る。次には狙いのバスが来るだろうと大人らしくゆったりと構えてみせる。

幸い次の驟雨は来なかったが、熱中症警報が出ていた町に雨が降って、多少気温は下がったものの、サウナ状態で、喉は渇くは、お腹は空くはのところへ、付近の食堂から任意区や醤油の匂いが流れてくる。

これがあるから、家の近所に事務所を引っ越そうと思ったのだった。今度は、少し頑張れば歩いて帰れる。私の足だと1時間かかってしまうかもしれないが、それでもバス乗り継ぎと同じくらいだ。そんなことを考えていると、ようやくバスが来た!が、これも行き先がさっきと同じ、家の方に行かないバスだった。

 

さすがに大人の余裕も、失われて、へたり込んでしまいたくなった。これは呪いか何かか? と、目の前に救いのタクシーが。雨が止んで、空車がどっと増えたタイミングだったらしい。

 

引っ越しをもうちょい頑張れば、この乗り継ぎともサヨナラだ。ふうっといくらか涼しい風が吹いてきて、60半ばの女一人、よろよろと家に向かったのだった。

味覚異常

一緒にコロナになった娘は本気にしてくれなかったのだが、軽く味覚異常がでた。何かを感じないと言うほどおかしいわけではにけど、期待通りの味がしない。コーヒーが不味い。カレーが味気ない。

 

すぐに横になりたくなっちゃう倦怠感も残っていて、このままじゃ廃用症候群で歩けなくなるかもと、気合いを入れて復帰したリハビリでもヨロヨロしているのが自分でもわかる状態。

 負けてはダメだと(何に負けるのか?)娘が動物園に誘ってれたので、助手席に。

目指すは羽村動物園のビーバーの赤ちゃんだ。

途中で雨になり、休憩をかねてファミレスでご飯食べて(だいぶ美味しいと思えるように)、えいやとかき氷も食べて(懐かしのジョイフルだから、サイゼ並みに安い)いるうちにひどい暑さも少しマシになって、久々の郊外の木立の中を車椅子を転がして、ボブキャットと見つめ合ったり、ここの看板動物のキリンを見上げたり、で、程々の人だかりの、だいぶ大きくなった子ビーバーをしばし眺める。前に甲府で見た赤ちゃんビーバーは隙を見ては脱走して、水に飛び込んでは回収されてと、ちょこまかしていたが、羽村の双子は、ぼーっと水に浮いているのが好きみたいだ。月齢なのか個性なのか。

 

結局午後一日遊んできたのだけど、外の空気は良い気分転換だった。

 ハイブリッド免疫も手に入れたことだし、いろいろと片付けて、もう少しアクティブな暮らしを取り戻そうと、密かに誓った週だった。

コロナだった話

娘と二人で、鼻が出て、喉がガラガラするようになった。

「これは…すごくお久しぶりの風邪だねえ」と、出まくるくしゃみに、内心笑っていたんだが、身体は熱っぽいのに、はっきりと発熱はない。発熱しないのに、節々の痛みは熱がある感じで、だるい。ベッドでゴロゴロしているうちに、眠ってしまう。

と、娘に起こされた。「市販の検査キットで、私陽性臭いんだけど、母もやってみた方が良いよ」 正直、えーーー? と言う気分だった。ワクチン6回目射って、人混みにも出かけていない。が、この頃には、猛烈に喉が痛くなってきていて、鼻が止まらず、目も痛い。1時間後には訪問医療の主治医の来訪予定だったので、見てもらおうと思っていたのだった。コロナ以外にもいろいろ流行ってるし、そっちじゃないかなあと希望的観測。

判定まで15分待っても、はっきりとした線は出てこない。と、そこで先生が「こんにちはー」と玄関先に。

 こんな感じで喉が痛くてと話ながら、もう一度判定キットを見ると

「あ、陽性だね。僕もキット持ってるけど、もう一回やる必要も無い」

 

で、コロナ判定されてしまった。

(娘は、とっくに近くの病院の発熱外来に行っていて不在で、こっちは再検査で確定)

木曜日だったので、次女は通勤時に使っている別宅に留まることにして、無症状の夫(こっちもワクチン6回)は、「もう週末だから、なんとかなるよ」となるべく人との接触をせずに乗り切るという。濃厚接触者だと言っても無症状。結局私と娘が治るまで無症状。

 

一番辛かったのは喉の痛みと目の痛みだったけど、風邪っぽくなってから6日目にはこれも消えて、鼻も止まって、胸が痛い感じで出てた重い咳も消えた。

 

だから何も大騒ぎをすることも無かったわけなんだけど、軽い症状の間の辛さは曰く言いがたいものがあったので、もう二度と嫌だねと言うのが正直な気持ち。

 

以上報告でした。

 

ミックスベジタブル

主婦としてお弁当や食事を作っていたころ、「お母さんはミックスベジタブル使いすぎ」と不評だった。「何でもミックスベジタブルの味になっちゃうんだよねえ」というのが子どもの意見。片麻痺になって台所から遠のいたら、当然、ミックスベジタブルも冷凍庫から消え、数年。最近少し料理が出来るようになってきて、自分の朝食や昼食をレンチンしたり、作ったりするようになってきて、唐突に「私はミックスベジタブルの味が好きなんだ」と気づいた。アメリカの高校時代の給食の味だからかもしれない。

とにかく無性に食べたくなって、ネットスーパーの注文に追加。誰もいないときに黙々と食べて、妙な幸せを感じている。コーンと人参とグリーンピースなんだから、何も悪いことないよね。

今日はおからパウダーも買ったので、明日の朝はこれで、ミックスベジタブル入りポテサラ風作ろうっと。