スピリチュアルと代替医療と女性向けセミナーとかが繋がっている理由(かな?)

どうしてスピリチュアルと代替医療と、それからキラキラ女子向けセミナーみたいなものが同じカテゴリーになってしまうのかと疑問を持ち、最初はニューエイジを、そして遡って19世紀の歴史を引っ掻き回してきたわけだが、3月25日の「えるかふぇ」で話してさらに数日考えていて少し見えてきたものがある。

なるほど。こんなに早い時期からビジネスだったんだ。

アメリカ人っていうのはなかなか凄い人たちでなんでもビジネス化してしまう。

開拓地に乗り込んで、斧一本で木々を切って農地を開墾する人が、同時に郵便と印刷を駆使して通信販売システムを作ってしまったりする。西部に行く前に船から下りた東部の都会でチャンスを見付けてビジネスを始めたり、農場が上手く行かないで、少し東に戻ってきてまったく別の仕事を始めたりする人もたくさんいた。開拓者魂というのは、つまりは起業家精神なんだね。

 

そう言われれば、開拓時代の伝説の人で、天使から開拓地に行って人々に教えを広げよと啓示を受けたというジョニー・アップルシードも、実は、開拓した土地に農作物が植わっていると確認できれば土地所有権を認めるという法律を旨く使って、開拓した土地にリンゴを植えまくって所有権をゲット、その果樹園を人に売ると言うビジネスをやっていた。もちろん果樹園を作りつつ、売りつつ、教えも説いていたわけだから、天使も咎める理由がない。

 

えるかふぇで取り上げたトムソン流医療(トムソニアン)の創始者トムソンも開拓農場生まれで、一大療法ビジネスを作り上げた。時代は工業化社会が到来し始めた19世紀の前半なので、異常に早いんじゃないか。自営業者なら(トムソンは民間療法士として開業していた)誰でも直面する、ビジネスを拡大しようにも技能を使って売り物を提供出来る自分はひとりしかいないという問題を解決しようとして、できたばかりの特許制度を使い、「冷えは万病の元だから唐辛子浣腸と蒸し風呂で身体を温めよう」という療法の特許を取って、この療法と薬草を家庭向けに販売するエージェントを募集して全国にフランチャイズシステムを展開した。

 

トムソンが死ぬとこのシステムはあえなく崩壊するのだけど、代替療法で特許を取るとか、フランチャイズ展開するとかのビジネスモデルは、現代まで受け継がれてきているのじゃないだろうか。

 

二つ目に紹介したのは、オーストリア(現在はチェコ)のプリースニツと言う人が始めたハイドロセラピー。プリースニツの故郷は中央ヨーロッパの高山地帯にあって冷鉱泉が沸く土地らしいのだが、オーストリア皇帝の弟を治療したことから有名になった。美しい山の保養地で冷水浴と運動をして健康を取り戻すというコンセプトは上流階級の人々を惹きつけ、僻地の山村はヨーロッパ中で有名になった。

 

プリース二ツ自身はやってくる人々のために保養所を新築するぐらいで、ビジネス展開はしようとも思わなかったらしい。だが現地を訪れてメソッドを学んだ人々は、これを自国に持ち帰ってビジネス展開を始めた。イギリスでも大流行し互いにたが、アメリカではハイドロセラピー雑誌が何万冊も流通するようになって、「自然療法を好む人たち」という「マーケット」が出来上がる。

 

雑誌を読み、保養施設に来る顧客として、ハイドロセラピーは隣接する親和性のある分野の愛好者をマーケットに取り込んでいく。グラハムの説く食養生の愛好者、身体を締め付けるビクトリア時代の衣服に異議を申し立てる衣類改良論の支持者、女性参政権運動の支持者。さらにグラハムは自然出産支持者だったので、自宅出産と産婆の支持者・・・元々が代替療法だったニューソートとの関係はまだ調べ切れてていないが、同時代のニューソートも女性に活躍の場を与える存在だったので、無関係ではないだろう。明らかな宗教との関連と言えば、菜食を教義とするセブンスデイアドベンチスト教会はハイドロセラピーを中心とした健康改良センターを設立していて、ここのセンター長がグラハムと並んで菜食と健康的(禁欲的)な生活を推奨したケロッグだった。

おそらく「スピ系」はこのあたりで「主流医療」と顧客を取り合う代替医療のマーケット開拓の結果出会って仲間になったのではないか。19世紀のロマン主義は、知性や理屈より感情や直感を重視した。これは独立戦争後アメリカの反権威反知性主義と相性が良い。(ここで言う権威や知性とは素人に対する専門家のことで、そもそもは神学校で勉強した聖職者のことだった。やがて医学校で勉強した医者が同じカテゴリーの専門家として認識されるようになる。)聖職者不要で神様や天使と直接コンタクトするスピ系と医者不要で自分が編み出した医療で人を治療する代替医療は同じカテゴリーだったのだ。

 まだ裏付けは全然足りないが、仮説としては見込みがありそう。

 

19世紀の後半、プリース二ツ流の水療法は、急速に人気を失って衰退する。その後新たな水療法(クナイプの水療法)を広めるべくドイツからやってきたルストと言う青年は、様々な自然療法を統合したナチュロパシーという新たな療法を生み出すことになる。

最初に書き忘れたけど、この辺の話のネタ本はこれです。

 

Nature Cures: The History of Alternative Medicine in America

Nature Cures: The History of Alternative Medicine in America