その批判は誰のためか(ニセ科学批判と批判批判について考える) 

しばらく前からニセ科学批判批判という動きがある。「批判批判」の趣旨は、発言が自由にできない窮屈さを「批判」している人たちは意識していないだろうということなのかなああと考えている。あるいは科学という権威を振り回して上から目線でものをいうのがみっともないし、結果として、ニセ科学信者を頑なにさせているだけなので、黙っている方が社会にとっては良いのだという論調も目にすることが多い。

 本気でがっつり批判する人よりも「いじめっ子みたいで目ざわりなので一言言っておきたい」という感じで参加している人が多いような気もする。

 

私はパソコン通信時代にヨチヨチとニセ科学批判を始めたのだが、当時から人格攻撃をしないのは当然で、事実の間違いを検証して指摘することを中心として、客観性を大切にすることというメソッドはあったと記憶している。

 

ただ通信速度が速くなって、ネットを使う人が増え、情報の拡散のスピードも段違いになって、「心配り」が間に合わなくなった側面がある。批判を非難と受け取ってしまう発言者がショックを受けている様子も丸見えだから同情する人も増えるし、善意の人を批判する無礼さに神経を逆なでされる人もどんどん増える。

 

そうした流れの中でニセ科学批判の「お作法」も修正されてきて、かなりの人が傍観者のために批判するということを意識するようになってきているように思う。そしておそらくそこも批判批判シンパの人たちの神経を逆なでしているのだろう。批判している人たちは誤情報発信者については最初から諦めているので、相手とコミュニケーションを取り、聞いてもらおうという態度を取っていないことが多い。(現実問題として、相手が商売だったりするときには、相手も聞く耳は持っていないし、やり取りもしない前からからブロックしてくれたりもする。)説得しようとして徒労に終わった体験を何度もすればそうなって当然だ。

 

当然なのだが、傍観者のために批判をしているなら、傍観者に好印象を与えるようなやりとりも心がけなくてはならないと考えるようになった。

 

望むとと望まざると、オープンな場所でニセ科学批判をすることは科学コミュニケーションに参加することなのだ。コミュニケーションと無関係なニセ科学批判というのは、ネット上では不可能だろう。「傍観者」に情報を届けたいのではなく、科学的な批判だけしたいのであれば、もっと閉じた場所である雑誌や、せめて読者をコントロールできるMLやメルマガでやるしかないと考えている。(そういう徹底したバンキングは批判をする人たちにとっても、心が動いてさらに調べたくなった人たちにとってもソースとして必要だし有用だ。)

こうしたことは科学コミュニケーターがやってくれれば、せめてノウハウを伝授してくれればと願ってきたのは私だけではないはずだ。だが私が願っているようなものは存在していないらしいこともわかってきた。だから、自分で考えるしかない。

 

傍観者に情報を伝えるために、誤情報発信者に対しても十分すぎるぐらい配慮した

心温まる批判を発信するように心がけようというのが、今の私の考えだ。