正月休み明けの今日、NYTでこの記事を読んだ。コロナに揺さぶられた社会で、思いがけないプラスを体験した人たちもいる。何でもポジティブに捉えよというアメリカ文化ゆえの視点だと捉えられないこともないが、書いている記者は「リジリエンス」をキーワードにする。困難に耐える人々の力だ。生き方を変える、視点を変えて新しい道を探すこともリジリエンスと考えようと。

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そして、朝日の朝刊の一面特集も読んだ。同じくコロナに翻弄され生き延びようとしているエッセンシャルワーカーを取り上げているんだけど、「翻弄される弱者」の側面が強調され、まとめのキーワードは成長から成熟へ、だ。ここで翻弄される弱者として描かれてしまっている人たちも、一人ひとり次の人生を考えて現在に至っているはず。リジリエンスと変化とひょっとしたら小さな希望の物語があるのかもしれない。共感と愛情をもって耳御傾けたら、全く別の世界が浮かび上がってくるかもしれない。

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日本の団塊インテリは脱成長が大好きで、現状に問題があれば全部脱成長にもっていきたがる。「コンクリートから人へ」と同じ発想だ。問題はそこではない。「財政も格差も経済成長が解決してくれる」という雑な考え方で来てしまったことだ。家事や子育ての大変さから「家族のために収入を得るのが自分の仕事だ」と逃げ出してきた面々は、社会の厄介ごとからも「経済成長を支えるのが自分の役割だと逃げ出して、積もり積もった難題を成長と一緒に捨てられると夢想してる。

 

成熟は成長の対義語ではない。社会人になって仕事に熟達し、収入も上がってきて、衣食住の環境を整え、家族となった人々に良いよい環境を与えられるようになるのが成熟だ。あたりまえのことだが、金も時間もかかる。ゆとりを切り捨てる無駄を省く経済とは真逆だ。成熟は結構だが、再びゆとりを作る贅沢な投資をどうやって作っていけるのか。個人のささやかな力の蓄積を尊重しないで、成熟させない政府は悪と雑な議論を続けるのはいい加減やめたい。

 NYTの記事に登場する30代の男性は、ビール工場での職を失ってステイホームしているうちに自分の人生を考え、もう一回大学に行って、コロナと戦う研究職を目指すことにした。今は医療用マスクの消毒リサイクルをするベンチャーで働き始めている。「美味しい毒を作るよりいいかと思って」。生れてはじめて本を読む習慣を身に着けた人、在宅勤務が可能になって、個人的な生産性が上がったという身体障害者、自動車通行止めの路地の監督から、コミュニティー活動につなげてる人、ファッション界の大変革、天災の多い日本では人生が変わって新しい世界で生きるようになる人が日常的にいるから、当たり前すぎて「ニュースにならない」のかもしれないが、弱い立場にあるように見える人々のささやかな生存戦略に潜む人間らしさをの粘り強さを他の人々と分かち合うことがメディアの役目でもあるだろう。我々はすべて個人だが、社会に翻弄されっぱなしの弱者ではない。一人一人が必死で生きようとする力がいつの間にか、社会の力に変わっていくのだ。