「しあわせになるための福島差別論」出版記念シンポジウム

日曜日は営業日なのですが、いろいろ繰り合わせて

 

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知っていること、知らなかったことをたくさんインプットして、うーんと悩みながら帰ってきました。知らなかったことは、何よりもパネリストの方々の「思い。」科学的な議論であっても、その問題に取り組む決意をして、ずっと取り組み続けることを支えてきた思いは、とても熱かったです。

南相馬の番場さんの問いかけはいつも重くて胸を突くが、兒玉先生野口先生の会場からの質問に答える口調からも、「それで君はどういう思いをもって福島に向き合っているの?」と問いかけられているような気がしました。

いつも忙しく動いている私の脳みそは眠っている間にも考えを整理するだけでなく、さらなる思考を加えているらしく、今朝は

「ああ、福島差別は福島という豊かでありながら都市の発展のせいで様々なひずみを抱えることになった「地方」の、原発事故災害で明らかになった問題の普遍性を否定し、自分の問題として考えないための隔離なんだ」

 

と悟って起きてきて、ちょっとすっきりしたと思ってこれを書いています。

 

「差別」というのは基本的に「自分とは違う」と考えて、思いを共有しないことですので、自分でも納得です。

 

であれば、私は福島の人たちとも思いを共有できるんじゃないかという言う問いかけを続けようと、今年も「ふくしまの話を聞こう」をやります。4月21日土曜日、いつものサンパール荒川です。