「あたしおかあさんだから」今頃

いろいろな方の論考を読んでも、「あたしおかあさんだから」の気持ち悪さが抜けないので、今さらだけど書こうと思う。

 

聞き取り取材をして書いたという歌詞のどこが気持ち悪いかというと「あたしおかあさんだから」という複合語が主語になっているところ。

 

「おかあさんになったあたしは5時に起きるの」でも、「お母さんね、5時に起きるの」でも、若干引っかかっただけだったかもしれない。

 

私も5時に起きるお母さんだった時期がある。5時から7時は子どもが熟睡してるから集中して原稿が書けたからだけど、洗濯機をまわすぐらいはやってた。今5時起きで家事やってる人たちの中にも、家族が寝ていて、あたしも寝ていたいと思いつつ同時に自分ひとりになれる時間の恵みを味わってっている人もいるかもしれない。

 

聞き取りをして応援歌を作るなら、そこまで突っ込んで本当の本音を聞き出して欲しかったけど、そうではなく、いろんなお母さんたちの言葉をざっくり「あたしおかあさんだから」という主語にまとめてしまったところが気持ち悪いんだなあと思っている。

 

この歌の主人公は「あたし」は自分の意思でこうやっていると言えない。子どもを産んだことで「おかあさん」という役割を演じることになり、お母さんという役に期待されていることをそのとおりに演じようとする。5時に起きたくはないらしいが、役を演じなくてはならないので5時に起きる。あたしにそうしろと強要している人はでてこない。たぶんそうするのを決めたのはあたしなのに、それを認められない。誰かにやらされているみたいに言う。

 

おそらく内在化した外部規範てやつなんだろう。だから、自分が5時に起きて短い爪と走れる服でパートに行くように誰も要求してないことにずっと気付かない。やめてもいいことにも気付かない。自分の意思で爪を切って、自分の意思で「これパートに行くのに良い服ね」って選んでも良いことにも気がつかない。

 

あたしは正直に言いにくいことを話しているつもりなんだけど、いちいち「おかあさんだから(そうしなくちゃいけないの)」と付け加えることで、ほわんとした被害者ポジションに逃げている。

 

あたしはひとりで仕事してたときにも「働く女だから」と軽く被害者ポジションにいたんじゃないかなあとまで思えてくる。

 

この歌を聴いた子どもが可哀相だと反応した人たちが引っかかったのもこのあたりなんじゃないだろうか。あたしにそうしろと言う人は、実母や姑じゃなければ夫かこどもになってしまう。夫はおとなだから、「あたしおかあさんだから」のトリックに気がつくかも知れない。でも子どもは自分がおかあさんにやりたくないことをやらせていると考える可能性がすごく大きい。そりゃかわいそうだ。

 

子どもは夫婦げんかも、お父さんが会社で疲れているのも、自分が良い子じゃないからだとストレートに考える存在なのだ。(子どもに全部自分のせいだ、自分がお母さんを苦しめているからお母さんの言うことを聞く良い子になろうと考えるようになるのを、しつけの成功だと考える大人もいるので、そこまで意図していないことを願いたいが。)

 

この歌の辛さは「自己犠牲の強要」じゃなくて、おそらくは「おかあさんだからやらないわけにいかない」と語ってくれた人に対して、「じゃあ、あなたという女性の本当にやりたいこと、言っちゃいましょうよ」と心を解き放つ方向に持って行けなかったこと、本当の本音を引き出せなかったことなんだと思う。

 

そう、私もかって、「おかあさんだから」と自分と向かいあうことを避けて、自分を小さく刈り込んでしまっていた時期があるのだ。幸い子どもが「それイヤだ」と言ってくれ、夫が「それでどうしたいの」と聞いてくれ、友人たちがよってたかって、本音を聞き出してくれて、そこから抜け出し、「あたし爪切ったよ」「あたしヒールは捨てた」と言える気持ちよさを知ったのだ。本当にせいせいしたんだった。

 

この歌に気持を言語化してもらっているように思っている人たちが、「あたし」を主語にしてせいせいしてたと感じられように手をさしのべたいな。

 

そうだ、そして「俺は男だから」が主語になっている人たちにも「俺は」という主語と「したい」という動詞を届けたい。